Yasuyuki_Takagi_of_FractionMagazineJapan

高木康行 Hyeres 2012写真部門入選インタビュー

海外で作家として活動をしていくこと

Yasuyuki Takagi Interview

他の国籍の人々とは違い、日本人は往々にして、自分の才能の開花を求める為に、ニューヨークに生活の場を求めるように思う。それは、人により、留学、アーティスト活動、就職と内容は異なるけれども、生活をすることだけを考えた時、日本ほど居心地の良い国はないのは一目瞭然だ。それは、アメリカと比べると、日本は、社会福祉や、教育機関のシステムの統制が格段に整っていることや、基本的に日本語を唯一のコミュニケーションの言語としている為、簡潔な意思の疎通が可能であることからも、容易に判断できることだと思う。

ニューヨークで、ただ生活をすることだけを目的にしているならば、自分の身の回りの環境を楽な方にいくらでも整えることができる。自分のアパートと、仕事場の往復を繰り返し、楽しくて居心地のいい簡単なことさえすればいいからだ。でも、この土地で、自分の才能を磨かせたい、認められたいと考えている人は、必然と、アメリカ社会の真っ只中に飛び込み、その一部となり得るように働きかけなければいけない。それは、決して楽な道ではない。アメリカ人や、ヨーロッパ人と同じくらい頑張っても、最初は実際の能力の半分以下しか認められない。数年滞在することで得られるのは、アメリカ生活を経験することだけであり、体験し、自分の才能を開示する為には、もっと長い期間ここにとどまり、生活をする必要があるだろう。実務的なことを (就労ビザや、永住権の申請、住居の問題等) 確実にこなし、自己の健康管理に留意し、多くの挫折や、理不尽な対応にめげず、それでも初心を忘れず突き進む為には,誇張ではなく、強靭で確固とした、精神力が必要となる。また、自分の仕事が社会的に認められるためには、まわりと協調することができる、柔軟な社交性と、ピンチもチャンスに昇華することができる、明るい想像力も必要かもしれない。

このように、表現すると、ニューヨーク生活は、苦渋に満ちた精進の積み重ねで、日々疲労困憊し、楽しみなど一つもない地獄のように捉えられるかもしれないが、もちろん良い面も沢山ある。日本と違い、産業が全ての社会、文化活動の理念ではない為に、実験的で、自由なアートがストリートには溢れているし、人権を認め、アメリカ市民と大差なく生活をおくらせてくれる寛容な社会でもある。そして、学歴や生い立ちに関係なく、意欲さえあれば、チャンスを与えられる土地であることもニューヨークの魅力の一つだと思う。

もし、自分が「なぜ、そんな長くアメリカに滞在しているの?日本に帰国する気はないの?」 と尋ねられたら、「いやー、帰るタイミング逃しちゃってねー」と答えるであろう。しかし、その心は、ここまで苦楽を味わった土地に、愛着を持ってしまっているので、帰国を願うことが現実的ではなくなってしまっているということだ。それは、楽しいことだけしか共有していないカップルが比較的別れやすく、苦楽を長年ともに分かち合ってきた同志のほうが絆が固く、お互い離れ難くなるということと、似ているかもしれない。

今回は、1993年からニューヨークに滞在し、Brutus, Esquire, GQ, The Telegraph、Wallpaper 誌に商業写真家として活躍する高木康行さんをインタビューした。高木さんは、米国滞在19年目にして初めて、フランスのコンペである、Hyeresに、今年度入選を果たした。高木さんは、一児の父親でもあり、生活を支えていくことに重点をおきながらも、作家としての創作に力を注ぐことを怠らず、また、移民として乗り越えていくべき数々のハードルを超え、活動してきた作家だ。筆者はダシュウッドブックスに務めて6年となるが、大手ファッションや、カルチャー誌に作品を載せてもらうことが、外国人はもとより、アメリカ人の写真家にとっても、一つの道標であることを知り、そのために、如何に多くのエネルギーと時間を費やすかということを学んだ。高木さんは、商業作家として活躍しながら、自身のプロジェクトを推進してきたのだろうか。また、外国人作家として、どのような点に注意を払い、活動をしてきたのか? その辺りを中心にインタビューを行った。

garden1.jpg

Garden 2009

ー高木さん、 Hyeres のご入選おめでとうございます。まず、簡単に、高木さんがニューヨークに来た経緯と、商業写真の分野にどのようにして入っていくことが出来たのか、お話しいただけますか?

僕は、1993年に、ブルックリンにある プラット・インスティチュートという 大学で映像の勉強をすることを目的にアメリカに来ました。大学の卒業制作をロング・アイランド・シティーで同級生と撮影している時に、交通事故に遭い、足を骨折しました。そのため、1年卒業する事が遅れてしまい、また、一生足に後遺症が残るような可能性のある大きな交通事故だったので、焦る思いや、やるせない思いを抱え、日々を過ごしていました。しかし、必死のリハビリの結果、1年後には完治し、また優れた弁護士の助力もあり、加害者との訴訟に勝ち、賠償金を手に入れ、学費の返済に当てることが出来て、事故後からの沈んだ気持ちが少し和らげられました。その後、めでたく卒業することができ、映像方面で就職活動を本腰を入れて再開するはずだったのですが、その分野に将来、身を置く事に強い疑問を感じ始めていました。それは、アメリカでの映像の仕事はハリウッドが中心に動いており、才能があっても、試験を受け、組合に入らなければ仕事がない状態を目の当たりにみて、自分が描いていた自由な映像の世界とはかけ離れていて、まるでマフィアのような閉ざされた世界のように感じたからです。そのような中で、チェルシーにあるsmall dark roomという、ハイエンドな商業作品を扱う現像所でアルバイトをする機会を得ました。そこは、若き日のマーク・ボスウイックや、テリー・リチャードソンなど、今や商業写真の分野で一流の仕事をしている作家も、出入りをするとても活気のある映像所でした。そこのオーナーの奥さんが写真家のエージェントであり、The New York Times誌に多くの興味深い写真を提供しているジェフ・リエデル (Jeff Riedel)という作家を紹介してくれて、ジェフのアシスタントとなることができました。ジャフとの仕事は3ヶ月で終了しましたが、そこでの経験を、履歴書に記載することが出来、本格的にフォト・アシスタントとしての職探しを始めることができました。それからエリオット・アーウィット(Elliott Erwitt) 、コト・ボロフォ (Koto Bolofo), ステファン・ルイツ (Stefan Ruitz),マット・ジョンズ (Matt Jones) 、ジョージ・ピッツ(George Pitts) と言ったような、商業写真のトップレベルの作家のアシスタントとして世界中を一緒に飛び回り、仕事をしてきました。

ー高木さんが、このように多くの著名な写真家からアシスタントして雇われたのは、何か特別なスキルがあったのでしょうか?また、そこで得た経験でどの様なことを感じましたか?

僕は映像から写真の分野に来たので、映画のような光の演出をするのが得意でした。おそらく、ライティングの技術の高さが一番気に入られた要因ではないかな。僕は、彼らを通じて多くの商業的に価値の高いファッションや、物撮りの撮影に関わってきたけれども、僕には向いていないと思いました。洋服や物を撮ることに強烈に執着を持ち愛着を感じている他の写真家と比べ、自分には、そのような情熱が薄いと思いました。そして独り立ちをするなら、社会的なドキュメンタリー作品を撮る写真家になりたいと強く思うようになりました。そして、あまり有名な写真家のアシスタントになると、自分の生活が全く無くなるので、中堅の写真家について生活費を稼ぎながら、自分のポートフォリオを作って行こうと思いました。でも、とにかく、90年代後半から、2000年初頭のニューヨークのファッションの世界は、活気がありました。世界中の才能に溢れた様々な国籍の人達と知り合い、一緒に仕事をすることが出来、その後友達になったり、仕事の後にみんなで食事を囲んで楽しく過ごしたことは、自分にとってかけがえのない財産となりました。

ー現在は、一人の写真家として、高木さんは、ヨーロッパの雑誌等で活躍されているのと同時に、近年は日本のメディアでも多く作品を発表されています。なぜ、インターナショルな経験をされた後で、日本へと向かっていったのでしょうか?

2005年ごろ、クリス・スターマン (Chris Sturman)という、streetersという、エージェンシーに当時所属していたイギリス人の写真家の友人に、自分のオリジナリティーをもっと早く築いていくべきだとアドバイスを受けたことが、日本に仕事を多く求めていくきっかけとなりました。

これは、他の国籍の人々と触れ合って感じてきたことなのですが、ヨーロッパ人、特にイギリス人や、フランス人、イタリア人は、自分のバックボーン(国籍、文化、言語、生い立ち)をポジティブに利用し、自己アピールをするのが天才的に優れており、 自分の人生設計を成就すべく、 意識的にかつ合理的に動くことができています。僕は彼らから、物事を成し遂げる際のサバイバルの真髄を学びました。それは、つまり自分のオリジナリティーの確立が成功するための、キーになるということです。自分が、日本のメディアと積極的に接触することで、反対にアメリカやヨーロッパで仕事をする時に高い評価を得ることが出来ると分かったのです。2005年以降は、本当に多くの日本の雑誌の為に仕事をしてきました。

ー高木さんが、今回Hyeresのフェスティバルに、入選された2つのプロジェクト (ニューヨークのハーレムにあるコミュニティー・ガーデンと日本の屋久島の7千年の太古から生息する縄文杉を見に行く登山シリーズ) を展示しますが、そのテーマを確立して行った経緯を教えてください。

実は、雑誌の仕事を通じて有名なアーティストのインタビューの様子を撮影する仕事があったのですが、そのアーティストの受け答えを聞いて、僕はアートの世界は、なんていい加減で、意味のないものだと感じていたんです。また、2008年に子供ができて、父親としての責任が出来て、ただ生活することだけに意識を集中しなければならず、全てのことがつまらなく感じてきた時期もありました。結局、アーティストなんて、利己主義な人間がやることなんじゃないかとか思ったりしました。社会がここまで物質的に満たされている中、アートをつくることの必然性などないのではないかなとも考えたりしました。でも、ある時、自分が興味を持っているものを撮っていけば良いんだ、自分にとってまず、意味のあるものを制作してみようと、思うことができました。また、僕はアート作品に1番、2番とか順位はつけられないと思います。そういったことを考えられるようになってから、新たな気持ちで作品を作り出すことができるようになりました。

環境問題に興味を抱いたのは、実はハイエンドなファッションの仕事を通じて、消費社会の構造と国際的な経済格差に対して、強い矛盾と反感を持ったことが一つのきっかけとなっています。コミュニティー・ガーデンは、子供が生まれる一年前から取り始めているのですが、もともと、空地だったところを市民の手によって、植物や、花の苗を植えることによって出来た人工のガーデンなんです。ハーレムには60以上の公園があるんですよ。2008年には、東京の大手の雑誌社のGQや Hugeに営業に出向き、僕のコミュニティー・ガーデンの企画が採用された時はとても、嬉しかったです。今まで、与えられた仕事だけを、こなすことばかりしていたので、100パーセント自分の意志で提示した企画が認められたことは本当に励みになりました。

屋久島は、JALの機内誌の撮影の為に、去年初めに訪れました。昔から、行ってみたいと思っていたので、仕事が終了後、他の撮影班が帰ってしまってから、一人島に残り、雪山をそれこそ死ぬ思いをしながら登り、7千年の間生息している縄文杉を目の前に観ることが出来ました。自然の力の荒ましさを知りました。

ずっと、外国人として生活に追われ、ビザの問題に四苦八苦し、いろいろな精神的な壁にもぶつかりながら、今回、コンテストに入選できたことは本当に嬉しいです。コミュニティー・ガーデンのプロジェクトは、今後ももっと掘り下げて行きたい企画です。環境問題を軸に今後も自分が掘り下げていきたい主題を自信を持って制作していこうと、新たな気持ちになれたことは、まさに今回のコンテストに受賞したおかげです。本当に有り難いことだと思っています。

ー最後に日本を離れて、海外で写真家として活躍を望んでいる、若い人達に一言アドバイスをよろしくお願いします。

先ほどいったことと重なりますが、海外で作家として活躍する為には、自分の生い立ちを上手く利用しすることはとても、有益であると思います。日本人であることを、積極的に謳い、意識的に自分のあるべき姿を作り上げていくと良いと思います。また、ストレートに、ただ頑張るだけでなく、サバイバルスキルをいっぱい学び楽しむような感覚で、アイディアを凝らしながら目の前に、立ちはだかる困難なことを対処していく柔軟性もとても大切だと思います。

forest1.jpg

Forest 2011

forest2.jpg

Forest 2011

garden2.jpg

Garden 2011

高木康行さんのウエブサイト

http://www.yasuyukitakagi.com

Hyeres フェスティバルの情報

http://www.villanoailles- hyeres.com/hyeres2012/index_en.php?cat_id=4&id=21